【傷つくということ】優しさの灯りを1つ灯せるということ

おはようございます!

超が何個ついても足りないほどの久しぶりとなりました。

最近は夏もお陰様で充実した日々を送らせていただいておりまして、毎日、カヌーだ釣りだと外に出かけております(仕事です)

また最近は別でのめりこんでいる趣味の研鑽に時間を費やしているということもありなかなかブログまで手が回りませんでしたが、今日は少しだけ時間が取れるので久しぶりにブログを書いてみたいと思います。

いや、たいした内容ではないんです。

タイトルだけみると「え?なんかあった?」と思ってしまうでしょうけれど、特段になにかあったわけではありません。

どういうことかと申しますと、息子が2歳を超えて日々成長していく中で親として息子に成長させてもらっておりまして、その過程の中で今までの自身の行動を振り返った時に「あぁ、そうだよなぁ」と気が付くといいますか、改めて「こう考えたほうが日々幸せに暮らせるよなぁ」という発見がありましたので、そのあたりの戯言を書き殴ってみようかと思った次第でございます。


とあるとき、ふと「心に傷がついたとき、例えば悔しい思いをしたり、理不尽な目に遭ったり、悲しい思いをしたり、裏切られたりしたときに、若いころは単純に怒りをぶつけたりあからさまに落ち込んだり、上手くいっている人の失敗を期待したりしていたなぁ」という思いが沸いてきたんですね。

で、その時に思ったのが

「今はそうは思えないなぁ。もちろん、悔しい思いがあったり、理不尽と感じることがあったり、裏切りに近いような言動に遭ったりすることはあるけれど、だからといってそれで無暗に怒ったり、対象となる人の失敗を願ったり必要以上に落ち込むことはなくなってきたな。むしろ他の人の成功を喜べるようになってきた。」

ということなんです。

もっと具体的に書きますと、

「自分が傷ついたり嫌な思いをしたりするたびに、僕はその分だけ人に対して優しくなれる。やさしさの小さな灯りを灯すことができるかもしれない。」

という喜びの感情まで芽生えるようになってきたんです。

日々息子と触れ合っているとその純真無垢な言動に心洗われる毎日でございまして、そのおかげからか、はたまた加齢のせいなのか、自身の考え方も随分と丸くなってきたといいますか、考え方の基本が変わってきたように感じることが多くなってきたんですよ。

そのうちのひとつがこのような考え方でして、自分が嫌な思いをしたらそれを養分として幸せや喜びの花を咲かせていければ、自分も回りも穏やかに過ごしていけるのではないのかなと、このように思ったんです。


今や時の人、いや、大げさではなく「歴史上の人物」となるであろうMLBの大谷翔平選手の言葉に

「タバコのポイ捨てを拾うことは、その人が捨てたラッキーを拾っているんです。」

という言葉があるのですが、この考え方に近いものなのかなと。

他人に対して優位性を誇示したり、揶揄したり、むやみやたらに傷つけるような態度をとる人は自ら享受するはずだったラッキーを捨てていることになる。

それを拾うことがきるのであれば、その瞬間の痛みも昇華でき、さらには自分だけではなく周囲も笑顔にできる可能性があるのですから、傷ついたり嫌な思いをすることも悪くはないんだなと、このように考えるようになった次第でございます。

人生に起こることで無駄なことは何一つない。

妻と息子に出会えたことで、この言葉の意味はより一層の実感を伴って僕の中に鎮座しております。

ブログ最近の記事

PAGE TOP